発達障害とアダルトチルドレン。私がアダルトチルドレンになった理由。

大人の発達障害者は、多かれ少なかれ、二次障害を抱えている人が多いです。

幼い頃からの数々のコミュニケーションの失敗によるトラウマ、自己肯定感の低下、対人恐怖、社会不安、鬱、愛着障害などなど…発達障害から派生する二次障害は様々です。

私もトラウマが背中に山積みになったままヨボヨボしながら歩いているような状態で、日常的にちょっとしたことが引き金になり、フラッシュバックに悩まされます。

でも、今回はそんな、発達障害ゆえの二次障害ではなく、

発達障害とは別に私の中に存在するアダルトチルドレン的な自分

について考えてみようと思います。

なぜ私はアダルトチルドレンになったのか

父親がアルコール依存症。毎日ネガティブな言葉を聞かされる。

私の家庭は機能不全家族でした。

まず、父はアルコール依存症でした。
母親が酒を隠すと烈火のごとく怒り、怒鳴り散らし、ガラスのコップを投げて壊し、ドアを壊さんばかりに家中に響き渡るぐらいの音を立てて閉めては怒りを表現していました。

幼い私が気を遣って話しかけても、機嫌の悪い時は無視が当たり前でした。

父親は常に何かに絶望していて、口を開けば、「死にたい」「辛い」「やってられない」と私が幼稚園児の頃から毎晩食卓で酒を片手にこぼしていました。

幼稚園児の私は父のそんな言葉を聞く度に、胸を痛め、

「お父さんはどうしてこんなに辛い思いをしてるんだろう」
「私がなんとかしてあげなきゃ」

といつも思っていました。
HSP特性もあったので、父の抱える虚しさ、絶望、などがダイレクトに伝わり、本当に辛かったです。

幼稚園児にして、悲しみ苦しみがなくならないこの世界に失望

でもそのうち、どんなに私が父の辛い思いを聞いてあげて、励ましてあげても父は変わらない、ということに気づきます。

「ああ、どんなに必死になって頑張っても、世の中には変えられない悲劇があるんだ」
「世界はなんて残酷なんだろう」
「現実はなんて冷たいんだろう」

と幼稚園児の私自身が絶望していきました。

「悲劇」なんて大げさだと思われるかもしれません。
でも幼稚園児の私にとっては家庭が世界の全てであり、父が「死にたい」と何度もこぼすほどの辛さを抱えているということは、悲劇以外の何物でもなかったのです。

父なりの愛情は感じていた

でも父は、子供に手をあげるようなことは一切ありませんでした。

父は父なりに何等かのトラウマを抱えていて、自分の心理的な苦しみに耐えるだけで精いっぱいだったんだと思います。

なので、父親としてはあまりいい父親ではなかったですが、決して子供に愛情のない父親ではありませんでした。
精神的に余裕のある時は楽しそうに会話をしてくれたこともありましたし、必ず手作りのご飯を作ってくれたり、おやつを作ってくれたりしていました。

送り迎えを嫌がる言葉もなく、怪我をすれば心配こそすれ病院に連れていくことを嫌がるそぶりは見せたことはありませんでした。

口数は少なく寡黙で、酔えば怖い存在ではありましたが、私は父親としての愛情は十分に感じていました。

母親は抑圧的。自分の価値観を子供に押し付けていることにも気付かない

母は常に、物事を自分の価値観、自分の物差しでしか計れない人でした。

自分にとって正しいと感じることでも、違う価値観の人にとってみれば正しくない、

ということが世の中にはたくさんありますが、それが全く理解できない人でした。

自分が正しい、と感じたらそれは当然、社会の多くの人がそう思っている、と信じて疑いません。

自己中心的な思考しかできない母

なので、

「私はあなたと価値観が違うのでそうは思わない」

と誰かが言ったとすると、

「あなた間違ってる!」
「あなたは正しくない!」

と猛然と自分の理論をまくしたてます。

相手が嫌気がさして「はいはい、あなたが一番正しいですよ」と投げやりに言うまでしつこく、こちらが場所を移動しても部屋に逃げても部屋のドアを無理やり開けて自分が満足するまで攻撃的に話し続けます。

その理論の矛盾点をこちらが冷静に指摘すると、

「私はそんなこと言ってない」
「そんなこと言ってるんじゃない」

という言葉を繰り返すだけで、矛盾の指摘に対する論理的な反論はできません。

彼女にとっては、論理的であるとか、自分の言っていることを客観視する、とかそんなことは必要ないのです。

とにかく、自分が正しいと思ったことは、全ての人が正しいと思うべき、自分が間違っているなんて夢にも思わない、という自己中心的な思考方法なのです。

事実を自分の都合の良いように捻じ曲げ思いこむ母

そして自分の理論の矛盾を指摘されると、ついさっき確かに自分が言ったことなのに、

「そんなこと言ってない」

と言い出します。

これは本当に驚くべきことなのですが、彼女は、

自分が言ったことを覚えているけど都合が悪いので「言っていない」と言ってごまかしている

というわけではなく、

本当に自分は言っていない

と、つい数分前の自分の記憶を自分の都合のいいように改ざんし、それが真実だと強力に思いこむのです。

なので、自分が言ったことを「言っていない」と言うことに何の罪悪感もないのです。

むしろ、今度は、

私は本当に言ってないのに、なぜあなたは嘘をつくの?

という主張をしてきます。

こちらは、そのあまりに客観視と論理性に欠けた主張に、その欠けている部分にも気付かない母に、それどころか、
「これだからあなたとは冷静に話ができない」と言い出す滑稽な姿に、愕然としてしまいます。

なぜ、自分こそが、冷静さを失い、感情的に論理性も客観性もない、ちぐはぐな理論をまくしたてている、ということに気づけないのか、と憐れにさえ思ってしまいます。

母の価値観をそのまま自分の中に取り込んで思考、行動していたので、自分の価値観を育むことができなかった

母が良しとすること、価値基準を毎日刷り込まれる

そんな母だったので、母は私に対しても、幼いころから、自分が正しいと思うことを子供に言って聞かせ、

自立した女性でなければいけない
女性が可愛さを強調した服を着るのはよくない
こうでなければいけない
ああでなければいけない…

と毎日のように沢山の母の考えを聞かされました。

私がちょっと女の子らしい服に興味を持つと

「そんな服が好きなの?」

と眉をしかめます。

だから私は母にいつも気をつかって、ボーイッシュな服ばかり選んでいました。
自分がどんなデザインが好きなのか、どんな色が好きなのかなんて考えたこともありませんでした。

母にもっと褒めてほしくて、可愛がって欲しかった私

母は子供とほとんどスキンシップをとらない人でしたし、何か賞を取ったとか、母がこうあるべきという姿に近づいた時だけ褒めますが、それ以外では常に批判的で、それは違う、そんなことしないほうがいい、こうしなさい、というばかりで、ありのままの私を褒めることはありませんでした。

なので、私はいつも、母によく思われたくて、褒めてほしくて、母が望むような子供になろうと必死でした。

だから、小学校高学年になるまで、自分がどうしたい、とか自分は今どんな気持ちなのかとか、考えたことがなく、

常に、

母ならどう思うのか、
母はこう言っていたからこうしなければならない、

と私の思考の100%が母そのものでした。
母の価値観を100%採用してその基準にのっとって全ての思考、行動を行っていたのです。

母は自己中心的で子供への愛情が不安定だった

そんな母でしたが、父と同様に決して子供に対して愛情がなかったというわけではありませんでした。
習い事や好きなことはできるだけやれるようにしてくれましたし、特に健康や食事についてはとても気を遣ってくれていました。

ただ、その愛情はとても不安定なものでした。
母が忙しかったり、何かで疲れていたり、母自身が精神的に余裕がない状態だと、途端に冷淡になる人でした。

水泳教室での話

例えば、私がまだ小学生低学年だった頃、
私は母に強く勧められ、しぶしぶ水泳教室に通っていました。

母は自分がよいと思ったものは有無を言わせず高圧的な言い方で勧めてくるので、私はものすごく嫌でしたが、まるでマインドコントロールのように、「母が言うのだからやらなければいけない」と思い、従っていました。

真冬の夜は冷えてガタガタと震えるぐらい寒い季節でした。

水泳教室の玄関からは迎えの車が来る駐車場の方はほとんど見えません。
なので、私は終わってすぐに外に出て確認し、母の車がないのでまた室内に戻り、しばらくするとまた外に出て確認する、というのを繰り返していました。

母は、迎えの時間に早めにくることはなく、いつも10分~15分、時には30分以上遅れることもあったので、待つことは慣れっこでした。(当時は携帯がないので、着いたら連絡する、ということはできません。)

そして、何度目かに外に出て、やっと迎えが来たのを確認し、車に乗り込むと、
母は鬼のような形相で、低くドスの効いた声で、

「あんたねえ、終わったらちゃんと車来るの見てないとだめでしょう!何してたのさ!」

と怒りに満ちた声で私を攻め立てました。

つまり、母は、自分が着いた時にすぐに私が出てこず、わずかに待たされたことに腹を立てていたのでした。

でも、私からすると、迎えの時間にいつも遅れてくる、いつ来るのかもわからない母を待たせないようにするためには、外でずっと入ってくる車を確認しながら待っているしかないのです。
玄関からは駐車場は見えないからです。

水泳の後で、ざっと髪をドライヤーで乾かしているとはいえ、万が一母が時間通りに来た場合に待たせないように、あまり完璧に乾かす時間はないので、生乾きの状態です。

そのまま外に出れば髪の毛が凍るほどの寒さなのです。

それでも、母は、私がずっと外で待っていなかったことを攻め立てるのでした。

仕方ないので、次回からは、髪の毛がカチカチに凍り、頭からつららがぶら下がっているような状態になり、ガタガタ震えながらも、ずっと外でいつ来るかわからない母の車を待っていました。

そして、やっと来たと車の中に入ると、その日は母の機嫌が良かったのか、

「なんでそんなになるまで外にいたの?中で待ってればよかったじゃない」

と平気な顔で母は言うのです。

病院に連れて行きたがらない母

また、母は子供を病院に連れていくのを嫌がる人でした。
待ち時間が長く、お金がかかるからです。
母は必要なことであってもお金を使うということを異常に嫌う人でした。
(うちの家庭はどちらかというとお金に余裕のある家でしたから、病院代に困るほど貧乏だったわけではありません。)

なので、風邪を引こうと、怪我をしようと、私がお願いだから病院に連れてってと言わない限り、自分から快く病院に連れていってくれることはありませんでした。

アトピーの時の話

アトピーで顔が真っ赤に爛れて、水さえも浸みて痛く、黄色い滲出液がにじみ、人がぎょっとするような顔になってしまった私にも、「保湿すれば治るでしょ」と言って病院には連れていってくれませんでした。

そんな顔で学校に行くのも苦痛でしたし、何より、痛くて痛くてたまらなかったので、結局、「自分で病院に行く」と言うと、「どうやって行くのさ?」という母。

私には交通手段が自転車かバスしかなく、皮膚科は片道20キロ近く離れたところにしかないので、車で送ってもらえないのなら、自転車かバスで行くしかありません。

それは母も十分知っているのに、あえて「どうやって行くの?」と聞いてくるのです。

つまり、私は車出さないからね、ということです。
結局、叔母に送ってもらってやっと病院に行くことができました。

病院で医師が驚き「よくこんな状態で我慢したね。」と言われた時、思わず、涙がにじみました。
他人でさえ、心配の声をかけてくれるのに、どうして母はその一言を言ってくれないのだろう、と。

包丁で指を切った時の話

私が包丁で、指の中の白い腱が見えるほどに深く切り、血をボタボタ流していても、それを電話で話すと、
「大丈夫よ、カットバン貼っておきなさい」で終わりでした。

その後、父がいつも通りの時間に帰ってきて、事情を話すと、すぐに病院に連れていってくれました。
「随分深く切ったね。縫わなきゃだめだね。」と言われ、数針縫ってもらいました。

嘘でもいいから心配の声をかけて欲しかった

母は仕事をしていたので、いつも疲れていました。
だから、車を出すのがとてもおっくうだったのでしょう。
病院に行って長く待たされるのも嫌だったのでしょう。

でも、それでも、子供ながらにも、これはあんまりじゃないか、と私は思っていました。

私が病院に行きたいと言うと嫌そうな顔しないで、
嘘でもいいから「大丈夫?」と心配そうな声をかけて、
私の怪我より、仕事の心配をしていることを私の目の前で話さないで、

お母さんは私のことが心配じゃないの?
私のことを大事に思ってないの?

と私はいつも悲しい気持ちでいっぱいでした。

高校生ぐらいであれば、そのような対応でも傷つかなかったかもしれません。
しかし、上記のようなことは、私が幼稚園児の頃から小学生の頃までに頻繁にあったことです。
まだ、怪我をしたり風邪を引いて高熱が出ると、とても不安でたまらなくなる年頃でした。
テレビドラマに出てくる「大丈夫?痛かったのね。辛かったね。」と優しく慰めてくれる母親が羨ましくてたまりませんでした。

お母さんは、私がどれくらい重い病気になれば心配してくれるんだろう。
私が死んだら悲しんてくれるかな?
もっと大事にすればよかったって言ってくれるかな?

そんなふうに、私が死んでやっと母が私を求めて泣く姿を想像して、自分の心を慰めていました。

まだまだ似たようなことはありすぎて、思い出すだけで悲しくなります。

病院に行きたければ自分でいくしかない、と悟る

そして、中学生になる頃には、

母にいくら症状を訴えても病院には連れていってくれない。
それなら、病院にいくべきかどうかは自分で判断して、お金を後で請求しよう。

と心に決めたのでした。
そうでないと、どんなに悪化して目の前で苦しんでいても母は自分から病院に連れていってはくれない、ということを何度も身をもって知ったからです。

家庭の中は緊張と悲しみと抑圧に溢れていた

そんな母でしたから、父に対しても、一方的に自分の正しさを認めさせようとするばかりで、譲歩したり、歩み寄ったり、妥協したり、お互いさまと考え相手を尊重する、ということを全くしなかったので、父もついには我慢できず、怒りだし、互いに怒鳴り合いの激しい喧嘩を毎日のように繰り広げていました。

なので、家庭の中での家族の会話はほとんどありませんでした。
いつもピリピリした空気が漂う、無言の食卓でした。

私はそのピリピリした空気が嫌で、いつもわざと陽気なフリをして父や母に話しかけていました。
もちろん、発達障害ですから、面白い話なんてできないし、会話もうまくできないので、家族を盛り上げることなんてできませんでした。

でも無言の緊迫した空気の中にいるよりはましだと思い、いつも

「話したいことがたくさんある子供」
「親に話を聞いてほしい子供」

を演じていました。

まとめ

というように、上記の環境の中で育つうちに、アダルトチルドレンになっていったと思われます。
なぜ、自分がアダルトチルドレンになったのか、という説明があまりにも長文になってしまったために、今自分が困っているアダルトチルドレン的症状について書けなかったので、それは次回にしようと思います。

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